『セル』という映画を観ました。スティーブン・キング原作・脚本の映画化で、亜流ゾンビもの。
主人公のクレイはグラフィックノベルの作家で、ようやっと作品の権利が売れたところ。そのことを別居中の妻に音声電話して、愛息子がiPhoneの画面に結像したとたんにバッテリーが切れてしまいます。場所は空港のロビーでしたが、充電用の差し込み口はどこも一杯で、クレイはやむなく小銭で公衆電話からかけることにします。息子に会いたいから、これから行っていいか、と妻シャロンに話すと小銭が不足。ところがその時、唐突に怪異が起きます。
この映画、メタファーがとても分かりやすい。
結末まで見るとナルホドと分かってきます。全てはクレイの作品が売れたところから始まっていること。そして、ラストはなぜか二通りあります。
電波塔を破壊して息子とカナダ国境へ渡るエンディングはクレイの本心です。彼は日銭の為につまらない作品を描いてしまいましたが、魂までは売っていませんでした。だから、作品が及ぼす悪影響とは縁を切ったおかげで、彼はようやく自由を手に入れて、健やかに息子と歩き始めることができたのです。職業ライターが陥りがちな罠ということですね。
一方で、外面のクレイは悪魔に手を貸した為、地獄に堕ちてしまいました。クレイのグラフィックノベルの悪役が皆の夢に登場し、クレイ一行を執拗に狙うのは、彼の作品の翻案権を悪魔が買ったからです。クレイは堕落に任せた作品を世に放ち、それは作者の与り知らないところで影響を与えていた、というわけです。ライターは自分の作品に全責任を負わなければならないのです。
最後の、使うべき時にと譲り受けたケータイは浦島太郎の玉手箱です。藤子・F・不二雄の『流血鬼』と同じで、長いものに巻かれていけないことはない、数が優位な側になってしまえば、そこには独自の視点がある、という観念です。1978年の映画『SF/ボディ・スナッチャー』とも似ています。どちらが異質なのか、という問いです。
スマホを手にした若い人々が、衆目を気にかけず、自分以外まるで存在しないかのように一人の世界に没入し、指で小さな画面をタップする様子は、スマホを普段使いしなかった世代からは異質に見えます。
スマホの人達は、SNSを始めとする、電波による繋がりで結ばれていて、それは共同体のようです。ユングの言う集団無意識がネットによって具現化されたとき、人々の心理が、同じでないことの方がおかしい、はみ出すことが怖いという原理原則に基づいてしまうのは理に適っているのかもしれません。
SNSでの虐めがまさしくこの例でしょう。閉鎖的な電子空間はともすると鬱屈した空気に呑まれたまま、一方的な暴力がまかり通る世界になります。
それを体現したものが携帯人というゾンビに他なりません。いやまったく、面白い立脚点を思いついたものですね。
紅いフードの男が作中での二重の悪役ですが、これは誰もがなり得る権化です。クレイの漫画を読んだ人かもしれないし、ネットやSNSにどっぷり漬かった中毒者かもしれません。誰でも成れますし、成ったことを本人は気が付かないのでしょう。
辞めるのはある意味では簡単。ケータイを捨ててスローライフに戻ればいいんです。でも、現代人にはほとんど無意味でしょう。ネットの無い生活はもはや想像できません。
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