ウエストワールド 2ndシーズンが始まりました。
デトロイト:ビカム・ヒューマンが発売されました。
ブレラン2049を鑑賞済みです。
まず気になるのは、
フランケンシュタイン・コンプレックスで終わらないよね? 大丈夫だよね? ってことです。
(まだ遊んでませんので)おそらく、テーマが目指すところは――ロボットや人工知能の研究者が語ったりするところと同じ――人造物を通して己を知る「
人間とは何か」、というやつに行き着くだろうな、と予想します。
スタートレック:ヴォイジャーに登場する、光子とフォースフィールドで出来た『ドクター』というキャラクターで既にやりつくされたことだと思いますが。
例えば、エピソード「
ドクターの家庭」が真っ先に思い出されます。人間らしくなるということは、辛くても辞められない、ってことです。プロジェクターのスイッチを切ればいい、というわけにはいきません。
ただ、ドクターはたくさん居る登場人物の一人でした。ヴォイジャー号のクルーの中で人造物は彼だけ。24世紀の背景世界ではドクターと同一モデルが使役させられている画が出てきたりはしています。ドクターのような存在が普遍的に山ほど居る世界ではどうだろうか? が現在の命題ですよね。
ウエストワールドが少々危ういのは、主人公としてのウィリアムに観客が乗れなかった(rideできなかった)こと。あの世界の良心であるかに匂わせたバナードが人造人間側だったこと。つまり、脚本家の関心事は人造人間たちがどう動くか、ということだったんですね。それがドロレスであり、メイヴであった。しかし、第一シーズンはミスリードや観客を騙すトリックが多すぎて、主題が曇っていました。クリフハンガーが、ホスト(人造人間)によるゲスト(人間)大量殺戮だったせいで、余計にフランケンシュタイン・コンプレックスに収束してしまうような危惧を感じました。
ブレラン2049も似ています。人間性を獲得した旧世代のレプリカントたちが、まるで奴隷が蜂起するように人類への反乱を画策していることが、最後に分かります。一方で主人公のKは自分なりに生きたことを証しとして、ロイ・バッティのように死んでいくのですが。
橋渡しをしようという立場の登場人物が居るかどうかは重要です。世界は人造物VS人類の闘争へと偏ったまま進みます。その戦争の中で個体がどう行動するかは追うけれども、戦争の流れは変えられない雰囲気です。それこそ人類が体験した二度の世界大戦のように。ある種、戦記物みたいですよね。
ウエストワールドでは、ただ生きているだけではなくて、ループの中で覚醒できているか、を人造人間に問うてきます。「皆さんは人生の中で覚醒できていますか?」ってぶん殴って来てるんです。すでに映画「ファイトクラブ」で体験したことですね。
そうなると、もう厳しい。非リアでも負け犬でも覚醒できていればいいんです。でも、できてませんからね、フツーは。仮にできていても、社会は依然としてゲストたちのものですよ! だから、ホスト側の俺なんかは立ち上がらないといけないんですわ。ヲタクのミームを生んで存続させるために! なかなか難しいですわ。リアルワールドは。
話が逸れました。
敵を滅ぼそう、ないしは、敵対勢力を削って主流はこちらだと認知させよう、って非情さは人間らしい反面、完全に覚醒してはいないことを裏打ちしているようなものでもあります。人間らしさの重要な側面は「
他人を受容できること」。
人造物が真に覚醒しているのであれば、この考えに到達している者がいるはず。そうした者らは、単純に反乱を企てはしないんですよ。融和であるとか、自分たちの共栄圏なんかを作ろうとするはず。(共栄圏という言葉から歴史的な過去の愚行を想起してしまいますが)せめて、P.K.ディック著『
高い城の男』に登場する第二次大戦に勝利したif世界の日本軍くらいにはなって欲しいんです。
当世風アメリカ製ドラマはヒューマンではあるけれども、どこか視点が固定化されていたりします。すぐに対立構造になってしまうのもその例。この辺の調理方法はもっと柔軟であって欲しいものです。
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