第1シーズンまで視聴
端から期待してはいなかったので、まぁこんなものだろう、という印象。どうして死者が歩くことになったかというパンデミックの原因についてはまだ触れられておらず。劇中では“ゾンビ”という例えは禁句らしく(字幕はやらかしてるが)、ウォーカーやらフリークやらと表現しなくてはいけない模様(笑)
第3話、第4話、第5話はドラマとして印象深かった。第6話は少々勇み足に見える。というのは、劇中での必須な説明を含んではいるものの、ジェンナー博士が皆を無理矢理閉じ込めてしまうことへの説得力がやや欠けているように感じたため。総じて作為的な筋書きが強かったせい。
ワタクシもご多分に漏れず、道義心溢れる人間ドラマが大好物。特に米国の、高いカネを注ぎ込んだドラマ作品は、何処かの国の湿っぽくて大げさなだけの未熟な作風とは異なって、ドライで最大公約数的に演出された作品が多く、万国共通な要素に富んでいる。まぁそれはともかく。自分の目で見るまでは、世間の評判を鵜呑みにはしないのが主義。
極限状態の人間ドラマは、なにもウォーキング・デッドが初めてではないはずで、いくつもの先例がある。要するに先行者をも超えられる質なのか、を確認したいわけ。LOSTはちょっと肌合いが違うように思えるが、例えば打ち切りのジェリコなんかは近そうだ。折しもアンダー・ザ・ドームという作品も現在ほぼ同時に視聴中で、それとの比較も興味深い。
ウォーキング~で弱点になるであろう箇所は、サバイバルへの焦点が見せ場になってしまうことだろう。登場人物の関係性が上手く絡められていればいいが、主人公リックの比重が高いまま筋が進み、脇役の活躍する頻度が限られつつある。
正義感溢れるリックを主体として物語を視ることは心地よくカタルシスになるものの、それでは人間ドラマとして弱い。メルルやDV行為の夫(キャロルの夫)といった人物を、村社会の中でどう御していくのか、なんてことがドラマ的題材になるべきだと思うのだ。ピザ配達夫の韓国人(グレン)や、口ばかり達者な太っちょの黒人(Tドッグ)が活躍の場を与えられていた「アトランタ市街からの脱出劇」には群像劇の要素があったが、いかんせん、展開が生存に傾倒しすぎていた。ほどなくして問題人物はさっさと排斥されてしまう(都合良くウォーカーの犠牲になる)。以降は、好人物のリックとの対比でしか表現されない部分がもどかしい。シェーンがいい例だ。あのダリルすらも次第に溶け込んでいるのが、なんとも解せない。
シェーンこそ、このドラマで注目すべき人物に違いない。リックの親友でありながら、負傷して昏睡中のリックを病院から脱出させられず、リックの細君には死んだと言うしかなかった。それからは、この細君ローリとその息子カールを見守る立場になり、あろうことかローリとは人目を忍んで姦通する間柄になっていたのだから。夫リックが戻ってからはローリの方が、熱しやすいシェーンとは距離をおく様子を見せ、健気な妻に終始している。
こう書けば、ローリも充分注目に値する。生存本能に長けた女性らしい奔放さ、…とでもいうべきか。シェーンとの関係を作ってしまったのはそうした性ゆえかも知れない。ネックレスに付けていた夫の指輪を気にするくだりは見せ方として秀逸だった。この場面でわかる限り、彼女は本来貞淑であったわけなのだ。そのくせ、(パンデミック以前は)夫たるリックにけんか腰で接していたことが、リックからとローリ本人の言で証されている。その夫が生きて戻れば、何のためらいもなく縒りを戻す、とはシェーンの立場からすれば掌返しがすさまじい。シェーンがああなる(リックの後ろ姿にショットガンを向けてしまう)のも無理からぬことに見える。
今までの感想では:見所はあるが、リックというモラルがありニュートラルな基本人格が強すぎる。極論すれば、主人公が“よい人”過ぎる。リック偏重の嫌いがあり、主人公を巡る関係性は、その対比でのみ成り立ってしまう。デールやアンドレアも(キャンプでの出来事で)見所を作ってはいるものの、群像劇はいささかシンプルになりすぎている。人間はもっといろいろな考えを持っているはずで、善人に徹しきれない者がシェーンだけではなかったとしても不思議はないはずだが、劇中では脇役の描き込みをする余裕が乏しい(もしくは貴重な脇役の離脱が速い)。本格的な人間ドラマを見たいということなら、ゾンビに追われての生存劇では不足に見える。6話見た限りでは足りない。
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