子供と社会考えさせられるハナシではある。純粋な子供ゆえの殺戮を社会はどう扱うのか。エンダーでない僕らが、もし現実に同じようなことをやらかしたら、少年院やら鑑別所行きだろう。
いじめられっ子が逆ギレして、いじめっ子に大怪我を負わせたり、ましてや命を奪ってしまったら、コトはそう簡単に解決しない。また、時には純粋すぎるゆえにか、現実の僕らの社会では、いじめられっ子の方が自らの命を諦めてしまったかのような顛末が報道されたりもする。
その場合、いじめっ子らはエンダーのような贖罪の意識を持つことがあるのだろうか。本編の末章「死者の代弁者」とは、まさしくそういうことなのだと気が付く。
そうしたテーマ性とは裏腹に本作は雄弁だ。優しさと弱さ、天与の才、反面教師の存在ピーター。
年端もいかないウィッギンの子供たちが、世間を、狡猾な大人達の社会を、彼らの才能と照らしてどう解するべきなのか、そしてどのようにそれを活用するべきなのか、悩む。
心理面ではまだ成長段階の彼らは、兄妹間での体験が社会のそれよりもむしろ上回っている。天才達には天才なりの恐ろしい純朴さが秘められており、そしてそれに伴うであろう責任や罪や予感が読者に暗示されるのだ。
同時代アニメの底本的存在富野由悠季のアニメを見て育った僕らには、至る所でエンダーの大人びた言動がアムロに見えてならない。
思春期を背景に、早熟な少年がモビルスーツに搭乗し、果てはニュータイプとしての覚醒の悩みを視聴者に見せていったガンダムは、エンダー的な要素がそのまま流用されていたかのようだ。ヴァルとエンダーの筏上でのシーンに、僕は「めぐりあい宇宙」篇のララアとアムロの出会いのシーンを重ねて思い出した。
そしてまた、ある意味順当に、別のサード・チルドレンであるところのシンジくんのアニメが、もっと泥臭く過敏に紡いでいた「選ばれた者が逃げ出せない時」の葛藤を思い起こさずにはいられない。シンジくんはアムロでもなければ、エンダーでもないのだから。
未来の“ゲーム”うちはゲームを扱ったブログなので、作中のゲームにもちょこっとだけ触れてみる。
作中に登場するマインド・ゲーム「巨人の飲み物」は、もはや今日のRPGといって遜色ない。同様に、作中で登場するホログラフィックで描かれる艦隊戦シミュレーションは、ストラテジージャンルのごとくだ。
残念ながら現代のRPGには、スカイリムをもってしても、あのような柔軟性はないが。どちらかといえば、ダーク・ソウルズの死んで解法を考えるゲーム性に近そうだ(笑) 原典としては、映画「ビッグ」にも出てきたような、テキスト・アドベンチャー時代のコマンド入力を想起する。
一方で机上の戦闘が実戦になるくだりは無人偵察機の実用化でずっと現実味を帯びている。仮想体験に重大な責任が伴うとしたら、それはちんけなMMOの比ではないことだろう。リアルマネー・トレードなんて可愛いものだ。
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