Cobweb of にーしか

モデリング、海外ドラマ感想、洋ゲーRPG

バルダーズゲートIII~ENDから見る理性的西洋の死生観

※ネタバレあり

16日、パッチ6が配信されたよん。いろいろイベントシーンが足されているので、1周目END間際のセーブからロードしてみれば、えらい違いや! と最初は思ったんだけど、いやいや見た記憶が飛んでるんだな。そういえば、前もあったんじゃね、と。

ネザーブレインを倒すENDは2種類確認した。幼生とネザーブレイン自身を破壊する命令を出すENDと、そして、自らがネザーブレインの支配者になるEND(実績解除)。後者に3つの台詞があるが、どれを選んでも同じのようだ。

シャドウハートとアスタリオンがエンディングでは絡んでこなかった――きっとロマンス100パーの専用ENDがあるからなのだろう。つまり、条件に合致しなかったのが私の見たEND。

私が見れたのは、カーラック専ENDじゃなかろうか。カーラックの地獄のエンジンをなんともしてやれなかった(できるのか知らん)ので。ウォーロックの力を失ったウィルと、フェイルーンでは燃え尽きてしまうカーラックと一緒にアヴェルヌスへ行くのが、私が取り得る最もGOODなENDだった。

だが、その前にイリシッド化した主人公自身の行く末を定めるENDが概ね3種類ある。はぐれイリシッドとして生きるか、それとも周囲への危険を考慮して獄中に収まるか、同様にモンスターになる前に自害するか。自害すると、カーラックがアヴェルヌスへ行くことがなくなり、自然に燃え尽きてしまう。

とりあえず、生きることを選ぶと、6ヵ月後にシナビの発案で壮行会が催され、アバターを犠牲にしたプレイヤーをねぎらってくれて、仲間のその後が聞ける。ただ、だれともロマンスがパーフェクトでないと、なんとも淡泊。あまり報われた気分にならなかった――少なくとも1周目でネザーブレイン対策をやり直した時には。

この場面で、イリシッドの本能に従って仲間の脳ミソを食べることにしてしまうと、シナビがお怒りになり、プレイヤーキャラクターが追放されてしまうのだった。

改めて3種類の主人公ENDを見ると、クリスチャンの死生観だよねぇとつくづく思う。まず、マインドフレイヤーには「ソウルがない」と言うシナビ。彼はいわゆる「死神」的なジャーガルの化身で、出来の悪いDEAD THREEの野望を挫くべく顕現したらしい。自害し、死後の世界を彷徨う主人公に、「おまえにはまだ何らかのスピリットが残されている」とまで言う。まだ役目がある理由だ、と。

設定厨で突っ込むなら、エルフにも魂はないとDnDでは定めているはずだ(少なくとも以前の版では)。

ソウルのない信者をいくら増やしても、神性すなわち一柱の力は増えない。マインドフレイヤーを利用した征服は、結局、混沌をもたらすだけだから、秩序の神々はお許しにならない、とエピローグで暗に語るシナビ氏。絶対神の助役として監視に来たような案配だ。

だから、死神なんだけど、ここでは善の側で、プレイヤーを見守る守護天使のような役目。日本風に捉えるなら、さしずめ、閻魔様だな。

尊い自己犠牲で世界を救った。イエス・キリストでんがな。お釈迦様なら、ここは諸行無常だったろうねぇ(当然ENDも違うだろう)。

スターウォーズのEP1~3の「JEDIオーダー」はどちらかというと仏教の信奉者で、アナキンはヨーダの解脱の教えに耐えられずにシーヴ・パルパティーンに傾倒しダース・ヴェイダーに変化してしまう。現代人にとって、執着を捨てたり、煩悩から解脱したり、中道に生きるのは(真理に見えることはあっても)、なかなか難しいし、容易に実行できない。アナキンが身を持って教えてくれているのはそれだ。

そもそも何らかの欲が無ければ人間という存在ではたり得ないし。それに比べれば、クリスチャンの自己犠牲はすこぶる分かりやすい。利他主義そのものだ。仏教に近い存在は劇中のドルイドだが、彼らの中道は秩序と混沌のバランス(中立性)なので、やはり西洋風にカスタマイズされている。モンクの原典は少林寺拳法に他ならないが、過去の版ではやはりドルイドに準ずるバランス主義だった。

オルフェウスのサイオニクスとその衛兵ギスゼライのモンクたちは、東洋を体現した信教を持っている可能性がある。しかし、ゲーム内では上辺しか映らないので宗教観までは不明だ。

蛇足ながら、SWでいうところの皇帝はダース・シディアスだ。BG3の「皇帝」はその辺から由来してるんじゃないか? しかも、イリシッド化した主人公は皇帝と同じ立場にあるとナレーターが仄めかす。

イリシッドの奴隷的意志は原罪に通じるようなところがあって、それから脱却して、なお人類全体の利益を考える、というあたりがまさにクリスチャンだと思う。理性的であろうとすること(つまり秩序)は、西洋的なんだろうね。西洋人の人道主義や教導の理念に基づく物語や逸話、寓意は、結局のところ、これになってしまう。分かりやすく、理解もしやすい。魂の不滅や、死後の世界、天国の存在には何ら反しない。

絶対神エイオーがいる多神教世界というのが、西洋の世界宗教たるキリスト教の誇示するカタチなのだろう。理知的存在の最高峰である理想のニンゲンに如何に届かせるか、という命題がファンタジーの英雄像と重なってくる。

それに加え、悪人になることすら可能だが、如何に届かないか、という理由も逆に考えるきっかけにはなる。ラファイエルの存在は(デヴィルながら)神々しいものの、プレイヤーが行う虐殺の類いには、悪の美学やピカレスクとしての表現が十二分に用意されてはいない。なぜなら、そもそも善と秩序の側からしか捉えていない出来事であるから、外れた裏街道は単にオマケでしかない。デヴィルは秩序に加担する反面教師でしかないのだ。

一方、原罪の方を強く指向してしまうと「性行の遺伝罪」が出てくるだろうから、そこは現代のポリコレと相反する。そういう旧約聖書じみた教義は洗い流したのが、使いやすくクリーンなテーマにした「自己犠牲」なんだろう。キアヌ・リーブス主演の映画「コンスタンティン」は今見てもその皮肉が痛快だ。

BG3、ゲームの娯楽性はまことに奥が深い。酔っ払いの拳が強いだけのモンクでも、英雄を達成できる。理知的な材に反するかのような、ある種のフリーセックス、快楽主義も興を添えている。私がヒッピームーブメントやロードムービーと喩えるのもそれゆえだ。お堅い教訓めいた物語ばかりではなくて、ゲームというメディアに、こうしたテーマが散見されるようになった昨今は本当にスゴイな、と思う。以前は映画が専らだった。また、パーティーメンバーとのロマンスは、ファイナルファンタジーVII(当時)にショックを受けたライターがBG2の仲間をあのように描き直したのがハシリだという事実を知ったときは、日本スゲーと思わざるを得なかった。

BG3を西洋的とするなら、カプコンのドラゴンズドグマ(1作目)は東洋的とでも言えそうな思想を若干擁しているかと思う。何せ「覚者」だから。
関連記事
スポンサーサイト



[ 2024/02/17 04:50 ] 考察 | TB(-) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
カレンダー
03 | 2024/04 | 05
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
月別アーカイブ
全記事表示リンク