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バルダーズゲートIII(26)

※ネタバレあり

ロージーモーン修道院(ギスヤンキのクレシュ)に入る道は2つある。左の岩棚から二階のバリケードを破って侵入する方法と、敷地をぐるっと回って裏階段、補給物資置き場になっている洞窟から潜入する方法。後者の方がショートカットだが、「ラサンダーの血」クエストをクリアするには、地上階のステンドグラスのパズルを解決しておかないといけない。表玄関のギスヤンキ門番によってクレシュへの立ち入りが認められなかった場合にも、後者を抜ければ入れるというわけだ。

このゲームではモンスターや敵対人物をただ倒しただけではXPの実入りが悪く、いわゆる「シークレット」に類いする場所を発見して獲得するXPにお得感がある。それ以外ではサブクエストを果たすことでXPが入る。つまり、探索のXPは2周目、3周目の効率主義にはもってこいだろうってこと。既知のルートを進むだけで入手できるわけだしね。

レイゼルが居なくとも、同じように(今回は我らが主人公が)除去装置を試し、(自分の代わりに)シャドウハートが「その装置に殺される!」と警告を発した辺りで、同じように装置が自壊した。ギスの女所長が調べる用具を取ってくると言って部屋を出ようとするが、それを許さずに血祭りに上げる我らが悪人パーティー。こうすることで、兵舎のギスを敵対させずに済んだ。

隊長ギスもぬっころして遮断幕の装置を解除し、奥の審問官居室でお馴染みの女王とリモート面会する。ここで看破に失敗「神の考えを覗こうとするか!」、「神に刃向かうか!」で二度もゲームオーバーしてしまった。キャラクターをリモートで抹殺できちゃうくせに、なんでアストラル・プリズムの問題を解決できないのか、確かに不思議だ。これはお約束だから、ツッコミした人は、クリエイターから神罰(Limited Wish? Deathスペル?)を受けちゃうのだろうね。

程なく7レベルに成長することができて、成り行き上、クレシュの全ギスヤンキを抹殺。卵も奪取。ここから一歩も出すまいと立ちはだかるギスの戦士には、火力集中で反撃の暇を与えず倒した。こちらも被害は避けられないけれども、この方法が一番有効だ。

「ラサンダーの血」が備える呪文効果「太陽光のビーム」が超お手軽で、X-MENサイクロップスになった気分。

――丁度いま、サイクロップスの沿革を読んでみたら、これ、アメリカの政治的な動きを(連動はしていないにしても)反映したかのような紆余曲折を感じさせるな。危険思想に芽生えて恩師エグゼビア教授を抹殺までしちゃったのか。リバタリアニズムに近いものがあるな。なんでもそれに関連付けるだろって? いや、実際、クリスチャンと保守派でできているような邦ぢゃんか。反発の生まれ方とか、同じ自由主義でも考え方の違いとか、それこそドラマのようなんだよ。

最近では、こういう政治的側面(ある種のインフルエンサー)をヒーローもので描くのが流行というか、ただのグラフィックノベルで落ちない、メジャーなサブカルとして活き残りを図っているんだろうね。政治的ではないとしても、社会正義か道義心での正しさを表した漫画版みたいなもの(敵はその反対の考え)。時代感が伴うことで、消費者の興味も引けるわけだ。出版社お抱えライターが頭を捻ってこねくりだして、古来の伝統的なヒーロー像にプラスアルファを足そうと躍起になってる(そうでなきゃ、ただのアンチ)。

対する日本はというと、シン・ゴジラあたりで庵野監督がそれっぽい暗喩を込めたくらいかな。相変わらず、日本のオタクカルチャーはいつもながらの通常運行で平和だし、私はジャンプ&サンデー&マガジンを愛好しないから、トレンドには付き合わない。進撃の巨人や鬼滅の刃には、たぶん日本人らしい某かが籠もっていたのだろうけれど。単に好みの問題なのよね。Marvelもたまたま引いただけで好みではないし。何を言いたいかと言うと、BG3にはそういうトレンド的な“上手いおはなし”が入っているということで、食わず嫌いの私が珍しく付き合っている、ってことさ。

さて、「影の呪いの地」へやってきた。今回はエルタレルの難民をエメラルド・グローブで虐殺してしまったため、「最後の光」亭がどうなっているのかは分からない。ミンサラの言う案内人と合流するのが最初のフックだ。

コラムみたいなものを書きたくなった。

これってホントに多神教?

斜に構えた見方をすれば、フォーガテンレウン(米発音風に)は多神教世界なのに、絶対神エイオーが居る、というところがミソだ。これはギリシャ神話のゼウスとも違う。ゼウスには力の及ばない冥界があったりするし、ゼウス自身、人間の若い女を孕ますのが大好きな好色家で、自分を律するというような性質の神じゃない。

フォーゴトンレルムの多神教は、まさにキリスト教の中の世界宗教に過ぎない。絶対神エイオーによる逸脱を許さないコード(掟)があって、それはクリスチャンや保守派が培ってきた聖書の教えってわけなのだ。

ゲーム的には、アセンションを果たした人間や半神半人が居るということで、高みを登った人間が成れる下位の神性から、化け物的な上位の神性まで存在するという位階を説明するのに相応しい設定と世界観を採っている。だからこそ、全てを監視して統率する真の神の存在が必要で、それはキリスト教的な道徳観にも適うのだろう。セッションの司会者であるダンジョン・マスターさえも、それら指導員の一人に感じられないだろうか。少なくともゲームセッションは、善だったり秩序だったりするパーティーを暗に推奨している。

汎用的で、平均的なアメリカ人にも受け入れやすい。地獄の概念やデヴィルを、ゲーム的に整えて流用しているのも同じ理屈だ。ラッフルとケイアスというアライメントが1st Editionから存在しているのも、正義(社会正義)の世界観で英雄譚を概念にしてきたからなんだろう。デヴィルはD&Dではラッフル・イーヴル(秩序にして悪)なのだ。

だから、混沌(ケイアス)の存在がデーモンである、というくだりは面白いし、ケオリック・グッド(混沌にして善)というアライメントがプレイヤーに認められているところも面白い。法に縛られることなく、善であろうとする――ロビンフッドのような義賊の性格付けなのだ。これは極めて“いい”解釈に思える。

そして、アライメント観は時代と共に変遷している。とりわけネガティブな方が。例えば、初期のケオリック・ニュートロルの説明は、端的に言えば、不安定な精神異常者だった。混沌にして中立、つまり善悪には囚われず、混沌でいることは「尋常ではない」という認識なのである。近年、この説明は幾分マシでマイルドな文言へと置き換わっている。

BG3では故意にか、プレイヤーにアライメントが強要されることはないし、オリジン・キャラクターのアライメントも隠されている。つまり、これは多様性への配慮の一環だろうと思う。アバターの生き方やロールプレイに口出しするような野暮なことはしないし、性格付けというレッテル貼りで束縛するようなことは“ポリコレ的に”許されないのだ。
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[ 2024/02/07 22:32 ] RPG | TB(-) | CM(0)
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