全般的には古典的SF「さまよえる都市宇宙船」の一形態。中学生の頃に読んだハインライン「宇宙の孤児」を思い出すなぁ――ちなみにアニメだと「メガゾーン23」らしい。アニアーラの乗員も同じ経過を辿れるはずなのだけれど、劇中ではひどく大雑把に省略されてしまったので、子孫は早い段階で滅んだ公算が高そうだ。
アニアーラの内容を吟味すると、我々の棲む宇宙船地球号がもしも劇中のように小さな存在であるとしたら、これまで気にも留めなかった、とある力関係が現れてきて、人々はそれを無視することができなくなる、という辺りだろう。
小さな国家的集合体では政治が人々に与える影響力は格段に強くなり、社会的な管理機構から逸脱することはほぼ不可能となる。外が宇宙空間ならなおさらだ。どこにも逃げ場は無い。被支配の束縛や、先行き不明からくる閉塞感の恐怖がいずれ強く表れてくるに違いない。良くも悪くも一心同体で、何かが起きればそれはもろともだ。
遭難したアニアーラ号では船長が全ての権力を保持し、望むと望まざるとに拘わらず独裁主義の専制君主となってしまう。幸いなことに有能な乗務員連中のおかげで何とか社会は自己完結して回り続け、幸か不幸か全乗客も不自由を感じながらも生存することができている(いた)。
つまり、社会情勢の不安感を分かりやすくしてくれる縮図がアニアーラ号だ。あるいは、政情不安な一国では、常にこうした考えを人々が持っている、という事実を暗示するのかもしれない。
余談ながら、劇中にテンソル第5理論というのが出てくる。これは、修正重力理論――スカラー・テンソル・ベクトル重力の第5の力の場(ファイオン場)のことだろう。重力理論の主流とは外れた別の見方――ダークマターの存在を必要としない――でもあるので、文系物理学オタにはちょっと面白い部分である。一方、現実では「ダークマター星発見か」との記事も踊る。
AIと思われる劇中のMIMAが人間の記憶に触れすぎて自殺するという、いわゆる“創発”を逆手に取ったアイデアも(今だからこそ逆に)興味深い。(1956年の原作から引いていると思われるので)昔のAIは人類を滅ぼそうと考えるより、自死を選ぶらしいってわけだ。究極の進化は死である、というような結論を人工知能に芽生えさせ、人類の手に負えなくなった彼らに自滅を促すオチのSF作品もあったよなぁ(TOSのエピソードだっけ?)。いずれも当時モノ(※)らしい考え方だ――高尚なる者は支配ではなくアセンションを選ぶ。それが昔は死であったが、昨今だと「her/世界でひとつの彼女」のようなオチだ。
※といっても、原作から10年くらい下ってしまうけど。この頃は時代感覚が比較的緩やかなので、十分通じそうに思う。
MIMA死亡後の船内の暮らしぶりは、70年代のヒッピー文化を呼び起こすもので、東西冷戦・泥沼のベトナム戦争時に見られた北米の文化的な発露を繰り返して見ているような気にさせる。カルトのセックス儀式のくだりは特に。あんな感じのサイケな雰囲気に懐かしみを覚えた。ちん○が映ってるああいう映像――ブルーフィルム、おじさんが子供の頃には世間にたくさんあったらしいよ。
劇中のMIMAも幻覚剤も、実は同じ役目を帯びた道具。トリップから受ける啓示やインスピレーション――あるときは心に平安をもたらし、あるときは破壊や創造をもたらす――で、何か拠り所を求める人間心理に欠かせない物としての描かれようだった。ジャック・ケルアックとかバロウズとかのビートニクを思わせるよね。
ハリー・マーティンソンの原作――読んでみたくとも古書の取り扱いがどこにもない――には、もっとたくさんの神話や宗教の引用らしきものがあるそうだが、この映画ではろくに出てこない。それらがないことによる、意味の喪失は大きいみたいだ。
派手なハリウッド映画に慣れていると、アニアーラの視点は庶民レベルなので、まぁまぁ面白いところもある。チープさは否めないが、むしろ、駅前のモールと住宅街が渾然一体の都市宇宙船になっているのだから、全編をどこかの百貨店でロケしていたとしても全然不思議ではない。見た目はそれくらいのチープさということで許容できていないと、この映像作品の視聴は辛かろう。
とはいえ……オタクの教養で言えば、もろ「マクロス」という単語に落ち着く(アニアーラに歌は出てこないけどね)。歌謡曲とアイドルを関連付けさせた老舗アニメだって、そもそもオタクカルチャーを町内国家を中心とした銀河戦争を揺るがすセカイ系で表したわけなので、相関のさせ方は似ていると言える。エヴァンゲリオンの第3新東京市といった舞台やラノベ系の学園ものを挙げれば、オタク的な視野は意外にも社会(狭い生活圏)の成り立ちの基礎から組み立てているわけで、その手法はアニアーラと大差ないことに気が付かされる。意外に馴染みの作りであったってことだ。で、オタクはとっくにそういうシロモノを見たり作ったりしており、そこに無かったものを挙げるとすれば、それは「政治的な観点」と言えるんじゃなかろうか。ムラ社会を代弁するハーレムなどは、描いている方だと言えそうだし。資本主義的な政治形態は敢えて外して描くのがオタク。オタクと同じ手法で成り立っている「アニアーラ」に敢えて視るべきところがあるとすれば、それは「政治と人」という部分かと。
ところで、ネジ(デブリ)に衝突して起きた火災事故はちょっと説得力が乏しい。人工重力を発生できるほどであるなら、大なり小なりデフレクターは当然装備されているはずで、障害物との偶発的な事故を全く抑制できていないのはおかしいからだ。そうしたものは宇宙旅行には必須の装備であるはずだ。
「槍」を経て中盤~オチは残念ながら拡がらない。宇宙は広大無辺で人類の存在は矮小という以外に、この部分に思弁的な要素を感じとるのは極めて難しい。人類に「槍」の意味は解明できなかった――最近スラングとしてよく使われる「虚無」。それは分かるけどね、文字と違って、映画にするとつまらなくなる箇所なんだろうね。
ジェリー・アンダーソン製作「スペース1999(SPACE:1999)」の第1シーズンもまた、当時モノのニューウェーブっぽいスピリチュアル系の「さまよえる都市宇宙船」形態であるので、未見の方はアニアーラの対比として視て頂くと面白いかと思う。第2シーズンはちょっとばかりウルトラファイトになってしまってアレだが。Year IIのテーマ音楽は私は好きですよ。
- 関連記事
-
スポンサーサイト