Cobweb of にーしか

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サブカルとしてのNieR:Automata

NieR:Automataにおける主要な登場人物の演出では、暴力と死が主に描かれる。ところが、使われているのはサブカルの直情的で短絡的な表現である。だから、復讐に狂う様子が絶叫台詞で表される。私がこの作品を稚拙に感じるのはこの表現方法ゆえなのだが、以下に説明するロジックを考慮すると、作り手は敢えてこの表現手法を使っているのかもしれない。

2Bはサイコパスか?

3周してゲームを一通りクリアすると、2Bの内面に対してある疑問が浮かぶ。2Bはクールで感情を表に出さず、任務に忠実な優等生として、プレイヤーの目には映る。でも、「いい加減、壊れろ!」(プロローグの他にもう1カ所ある)という台詞が代表的なように、怒りと破壊行為を肯定的な発露とするのが彼女の立場なのだ。

A2の証言によれば、2Bという型番は偽装で本性は2Eであり、スキャナータイプに対する処刑人(Executioner)だという。そして、スキャナータイプはいずれ事実に気がつく潜在能力が、司令部から不安視されているという。

すると、2B(2E)の9Sへの親愛の情が問題となる。2Bは9Sを大切な存在として認識していたことが、イヴ戦のクライマックスで明らかになるが、9Sの首を絞める場面には疑問符がつく。

まず、大前提は、9Sを殺すと“今の”9Sが失われるということ。ヨルハ部隊の全員は定期的にメモリー(記憶)をバックアップされている。したがって、擬体が失われても、多少巻き戻るだけで済むことになっている。

物語上、1周目ではその描き方が曖昧で、特にイヴ戦の9Sは修復されて復帰したばかり。バックアップは当然したはずと思いがちだが、2周目の9S側の描かれ方によると、2Bと9Sは敢えてバックアップを見送っていたという事実が明るみに出る。

9S退場後からイヴ戦までに単独先行していた2Bは、この事実をどうにかして共有した上で、9Sの絞殺に及んだようだ――さもないと、「今の9Sが失われる」という台詞が出てこない。1周目では見過ごされやすく、この辺を事前に説明する明確な台詞はなかったかもしれない。例えば、プロローグ後の9Sでは、バックアップが間に合わず、自爆の記憶がない、という台詞の説明があった。

さて、本題だが、2Bはイヴの影響で感染した9Sを自らの手で絞殺せねばならない状況に陥り、クールなこれまでを覆すように、過剰に苦しみと哀しみを表出させた。

となると、9Sを毎回処刑していた記憶は自覚されていないのだろうか、という結論にならざるをえない。つまり、自覚されていれば、隠れたサイコパスの素養があってもおかしくない。

2B「9Sを殺していいのは、アタシだけ!」

……そうなっていはいないことから、2Bは9Sを殺した記憶を消去されているのだろう。過去に何度かそういうことが起きたと仮定すると。今回が初めて、ということもあるかもしれない。もしそうならば、A2は最近の事情に非常によく精通している、“過去モデル”だし、脱走して日が浅いということなのか。

A2「2Bはずっと悩んでいたよ、君を殺し続けることを」
これは新たに起動する次のバンカー、新しい2Bを見続けているということなのか、それとも?


ヨルハ部隊は命を軽視する人殺し部隊

ヨルハ部隊は人類抹殺を企む機械生命体を狩る兵士の集団であることから、暴力と死に加担することを肯定的に捉えているようだ。9Sは機械生命体の社会性を無視したり、差別したり、憎むような台詞を言う。9Sと2Bに感情があることはプレイヤーから見ても明白だ。

そこで、筋書き上の意外な事実が「二人に」徐々に突きつけられていく。

・機械生命体は言葉を話す。
・機械生命体はかつての人間の生活に影響を受けている。
・機械生命体の中には、自らをネットワークから切り離して、独立して生活を営んでいる個体がいる。
・パスカルらは、平和を愛する機械生命体で、独自の村を作っている。
・アンドロイドのレジスタンス・キャンプはパスカルの村と交流がある(共存している)。
・森の王は排他的な機械生命体の集団で、彼ら以外を受け入れない。
・機械生命体を地球に送ったエイリアンは既に死滅している。
・機械生命体はアダム(有機体)を生み出した。
・アダムはイヴを生み出した。
・アダムとイヴは人間そっくり。その知能や習慣も人間を模している。
・人類は既に滅亡しており、月面にはDNA情報しかない。[ただし、知るのは9Sのみ]
・ヨルハ部隊の指揮官クラスしかこの事実を知らない。[ただし、知るのは9Sのみ]
・指揮官はヨルハ部隊の存在意義を機械生命体の抹殺に見出している。
・指揮官は人類滅亡の事実と機械生命体に対する報告を以てしても、殲滅作戦しか実行しない。(共存という知恵を持たない)

ヨルハ部隊に欠けている解決策や思考は、機械生命体と共存を計り、人類の再興を共に担うことだ。月にあるDNAを使えば、それも不可能ではないだろう。しかし、指揮官にはその考えはなかった。

加えて推察すれば、指揮官は機械生命体を完全には抹殺させないのではないか? どこかに機械生命体の芽を残して見逃してやり、彼らが盛り返すと、再び抹殺を始めたりするのかもしれない――世界観において、機械生命体抹殺後のシナリオが言及されている可能性はある。
少なくとも、9Sが言うにはヨルハ部隊は使い捨ての駒で、時限式のウィルスに乗っ取られ、自己崩壊するということだった。また、赤い少女は、月のDNAを破壊する砲弾を箱船に変えたと“ナレーション”が親切に説明してくれる。

9Sは感情面が強いばかりに真実を認めない、故意の不良品

スキャナータイプは、分析能力に優れ、的確な判断を下すことができるそうだ。前述の明るみに出た数々の真実からは、スキャナータイプが、いくつかの段階の時点で、合理的な解決策に行き着く可能性を秘めていたに違いない。

実際に、真実を知った9Sは、2Bにそのことを伝えるかどうかを躊躇している。その矢先、2BをA2に殺されたと誤解する。2Bを大切に思うゆえの復讐心で目が曇らされ、9Sの以後の行動は自制心を欠いたものとなっていく。

9Sには差別と復讐心が強く植え付けられているのだろう。これが(ヨルハ指揮官側の)フェールセーフとしてよく機能し、体よく、機械生命体の“人権”を無視する方向へ動いた。

ヨルハ指揮官からすれば9Sの行動は「目論見通り」であろう。
用意された理屈に目を向けると、Cエンドで9Sを操作すると赤い目が光るわけで、全ての凶行は「論理ウィルスのせいだ」とする結論を受け入れてもいい。イヴから感染したのだ、と。さすれば、機械生命体自体にはそうした発狂はない、とも読める。全部、赤い目がしでかしたことだから。しかし、それでは、そもそもの主旨を全否定してしまわないだろうか? 性善説で、悪いのは全てウィルスのせい、では。

この転換点において、9Sは真実から目を背けることなく、機械生命体とアンドロイドの架け橋となる大使を自任することを目指してもよかった。2Bが真実を知ったら、あるいは、これを目指したかもしれない(前述の「いい加減、壊れろ!」を有するモデルならば、そうしなかった可能性も強い)。

2Bや9Sが司令部の命令から逸脱できないことを、「洗脳」として受け取ることもできる。あるいは「偏見の克服」がテーマだと解釈することもできる。でも、このゲーム作品には、それとは違う何かを感じてしまうし、別のシナリオもあったはずだと考えさせられてしまう。

脚本家・演出家として作れたであろう別の芝居

NieR:Automataでは、アニメ・漫画のサブカル文化で頻出した、暴力と死を扱ったバイオレンスな復讐劇のドラマを踏襲している。曰く、仲間を殺される事件に出くわした主人公は、冷静沈着な解決策を無視し、思考停止状態のまま、短絡的・直情的に怒りを復讐心に燃やして、その行為を果たす――というシノプシスだ。

イヴと9Sのどちらも、この描かれ方に終始した。

イヴは生まれたばかりの生命体であることから、感情に流されるのは、許容できる範囲かもしれない。とはいえ、アダムこと“にぃちゃん”と一緒に長テーブルに向かい合わせて座り、膨大な図書館の書籍から、人類の文化を読みふけっている場面がある――イヴは兄と違って、勉強嫌いの劣等生だったことが裏目に出たようだ。

9Sの場合には、スキャナータイプという理性が備わっていた。彼を直情的な復讐劇にかき立てた罪は重い。それを推したのは誰あろう脚本家……というわけで、描かれるべきは「9Sの迷い」であるべきだったのではないか。

また、9Sを見守る周囲の共同体の存在もドラマには取り入れるべきで、9Sの復讐へ至る過程には、他者からの助言や行動指針のヒントが被せられるべきではなかったか? それらを採り入れた上で、なおプレイヤーたる9Sが復讐を実行するのか? という選択肢を問うたなら、このゲームの貢献はとりわけ大きかったはずだ。

9Sを操作する結末のDエンド(およびEエンド)がおそらく、そういうことを暗に言いたかったのだろうが、矮小に過ぎた。

つまり、2Bがアダムを殺す場面にプレイヤーが介入できないとしても、2B退場後の9Sの決断には、プレイヤーが介入できる余地が残されているべきじゃないのか? そうできたら、どんなにか素晴らしかったろう、ということである。

9Sが絶望へと自らを追い込む様子を淡々と見せつけられるプレイヤーは、問題解決力を担わされることがなかったことに失望してしまう。ゲームが他のメディアと違う特質が、提供されなかったことを残念に感じるのだ。

プレイヤーの介入を封じた、作り手のこの判断はいかにも“今”的だ。秋葉原通り魔事件と9Sの凶行とは、言ってみれば同等である。私たちは加藤 智大被告を救ってやることができないし、その機会もなかった。同じように、9Sを救うこともできない。

だから、Dエンドにも決定的な問題がある。仮に魂の救済があったとして、それは死刑執行された被告には救いになるのだろうか? (Eエンドでは)9Sと2Bは再組み立て可能なアンドロイドだから、事後の救済ができた。死刑廃止論や更正した犯罪者(更生保護)に考えが及ぶくらい、突っ込んだ部分まで想定した度量を求めるのはおかしいだろうか? 真に世の中を良くしたいなら、あるべきだと感じるが…… たかがエンタメにそこまで言うか? いや、複雑怪奇な現代のエンタメだからこそ、魚質竜文ではダメなのだ。「これは共助の勧めか。それともご都合主義か。」

私たちは9Sの凶行を反面教師に、お互いを励まし合って生きていこう、そう言えるのはこれがフィクションであり、作り物だからだ。そうではなく、9Sの凶行を事前に止めたいと思ったプレイヤーにそれを実行させて欲しかった。それがプレイヤーを信じる親心といったものではなかったか。繋がるようでいて、真には繋がらない、現代の利器の性質もまざまざと感じさせる。

余談ながら、9Sの描かれ方が復讐心だけだったかというと、そういうわけでもない。サイバー空間で自らの記憶がカタチを得た心象風景の部屋(2Bの写真が飾られた部屋)が現れて、2Bを単なる美化や愛の対象(青少年の見られたくない裏面)だけではなく、愛憎の場所(アンビバレンス)としても描かれたらしい場面(2Bの胸を刺している9S)があった。

裏を返せば、2Eに処刑された過去の封印された記憶(あるいは、処刑される未来への無意識的な予感)のはけ口を意味するのかもしれない。この辺は、エヴァンゲリオンの庵野監督にあやかったかのようにシンジ君を連想させる。

このゲームには注目すべきポイントが、実はけっこうある。アダムやイヴ、2B、9Sも、負傷すると赤い液体を滴らせる点もそのひとつ。ヨルハのアンドロイドのブラックボックスは機械生命体のコアを流用している、というくだりもそうだ。ここを、安っぽい理屈と見るか、巧妙に組み立てられた作劇と見るか? 視聴者のリテラシーを試す部分とも言える。


さらにまた、脚本家の腕の見せ所は他にもあった。ヨルハ部隊VS機械生命体における、両者の立場を如実に表した視点を無理なく取り入れることだ。当作におけるコミカル表現は、機械生命体の本質(人類を抹殺した脅威)を欺いて悲劇的な存在(無垢・純真)と見せる役割を担うが、果たして狙い通りに成功しているだろうか? 

当作の機械生命体は、大衆における衆愚や、狂信的な新興宗教や、行きすぎた同調圧力のメタファーとなり得るが、単なるスケープゴートでしかない。こうした社会的な諸問題に対して、脚本家は敢えて突っ込んで描く行為を避け、マイルドな仕上げで逃げたとも言えるだろう。

サブクエストには、こうした疑義を補うような内容も存在するようだ――ただし、お使いクエストという娯楽性を欠いた作業のため、私はほとんど実行する気にならなかった(興味を引くコンテンツにできなかった責任を問うのは酷だが、物語を補完する内容が目にされない不幸は解消されるべきだろう)。


とはいえ、命は平等、差別をなくそう、といったテーマを実直に語りすぎると、それは倫理観の押しつけがましい作品になってしまう。ゲームを遊ぶ対象層と目する反抗期の若者からは、一層見向きもされなくなる恐れがある。

ここで見せてやるべきは、倫理とはどういう部分から発せられ、「やるべきでない行為とは何か?」という認識へと誘う筋道だろう。そこを分かりやすく、且つ説教くさくなく、示すことが可能ならば、その脚本家は称賛を受けることができるはずだ。と、小生なんかは思うのだ。(ヨコオタロウ氏による独特の語りは既に評価されているし、NieR:Automataという復讐譚が成功していない理由にはならない。しかし、steamでの不評を読むと、サブカル的な“ニィチャン”への否定もまた多かった。だから、敢えて私が言いたいのは、理想の語り口について、といったところになる)

初代の宇宙戦艦ヤマトであれば、「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった」という古代の台詞であったし――劇中のこのくだりはやや唐突で、当時の若い私は、ガミラスを倒してナンボのエンタメのくせに(80年代に至っては、クサい)、と感じたものだ。

初代ガンダムであれば、アムロとララァの二人はわかり合えたのに、連邦&ジオンとシャアという存在によって、時代の哀切を知ることしか出来なかった…… 富野御大のガンダムが秀逸なところは、ニュータイプという大層な概念を示しつつも、それは結局のところ理想論かフェイクであり、実際には多様な人間の関係性を多感に示唆できたところにある――かつての視聴者が年齢を重ねるにつれて、ある種の実体験から似たような洞察に思い至るという凄さ。必ずしも、“オタクの為の”ガンダムに限られたことではないけれども、優れた文学作品(映画、小説、漫画)に通底する体験である。

NieR:Automataには、残念ながら、ラノベ文化が象徴し、且つ受け継がれている、若者が接する狭い範囲の世界でしか描かれない理(ことわり)を当然とする風潮がある。一例を挙げれば、親から生まれたことのないアンドロイドという立場(描かれない親)。日本社会の中で大黒柱を果たしてきたはずの「中年親父」という存在を扱わない主義――なぜ、パスカル「おじさん」は女声なのか。

さらに、萌えや腐女子に共通する要素の、若い娘やイケメンが主体となる出来事・世界。「若さ」か「カッコ良さ」しか目に映るものがない。加えて、当作には狙い以上に作用してしまっている2Bという「性的アピール」がある。

かように、真に恐ろしきは、復讐心や差別心に呑まれてしまうことよりも、そうした即物性に弱い我々という生き物のことか。
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[ 2023/03/24 09:05 ] 考察 | TB(-) | CM(0)
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