マーウェン初めて鑑賞しました。基本的に、俺はこの手のに弱い。ディックの短篇「パーキーパットの日々」を連想させますし、心に傷を負った人々がThe Simsで遊ぶことで自分の(虐待の)体験を表現したといった記事を読んだことを思い出します。もっとも、パーキーパットの意味するところは少し異なるのですが。
漫画家や小説家が自身の創作を利用して、厳しい現実を、よりよい方向へ作り替える、といった趣向は決して風変わりなことではありませんよね。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」によって、シャロン・テートを救うのもそうした企てのひとつだと言えるでしょう。
エロマンガ描きや少女漫画家も、読者の思い描く理想に合致させて、同様の意図をもって、ご都合主義な世界を描いた作品を発表することがあるはずです。
マーウェンは大人向けの「トイ・ストーリー」と言い換えてもいいかもしれませんね。空想が現実を癒やします。そして、克服しなければならない問題を暗示します。
TNGでなら、バークレー中尉の「倒錯のホログラムデッキ」が一番近そうです。
「ある者は孤独のままに生きることを余儀なくされる」というセリフは何も倒錯趣味を持った人(表現が難しいのですが、主人公マークのような人物像はなんと言えばいいのでしょう?)に限られた話ではないことは身をもって知っています。昨今、結婚できない男女は多いわけですから。
人形たちのドラマが暴力に終始するのは、虐待の再現と復讐または抵抗なのでしょう。危ういバランスの中で成り立っているわけです。それほど、現実ではマークを目の敵にする人物が多い、と。
劇中では、queer(オカマ)と言われたとマークは述懐しています。
マークをニュートラルな人間とは捉えられない部分があるので、Rideするのは徐々に困難に感じますよね。視聴者が似たような疎外感を味わったことがあったとしても、その原因はマークのように倒錯趣味だったこと(ヘイトクライムを受けたこと)では無いから、と。つまり、自分が村八分されたのは、倒錯趣味のせいではない! みたいな自己弁護で、マークと自分とをイコールと認めない人は多いのでは?――「女性物の靴に興味なんて無いし」
この場合、マークが自分の傍に住んでいる人物だと仮定して、それを許容できるかどうか、といった見方もできます。社会的に害をなすわけではないので、倒錯趣味とはいえ、何ら問題はないわけですが。例えば、オタクを馬鹿にする風潮と、まぁ、根は同じですよね。
北米ではマッチョ思想が根強いということなんでしょう。だから、(マークのように)女性を連想させるシンボルを、男性が利用していると、マッチョ達が「気に入らねぇ」とばかりに、ちょっかい出してくるわけで。
倒錯趣味というか、アングラな趣味が、リアルの地域社会やコミュニティで認められるかどうかは、かなり微妙な問題に思えます。ひとえに、対象者の人となりによるでしょう。同じオタクでも、コミュ障でキモいオタクなら、嫌われるわけです。
惚れっぽいマークは女性に親切にされると、それを好意と受け取ってしまいます。この心理状態、実は、けっこう普通です(ナイチンゲール効果)。異性の看護師に世話されて、好意を持たれていると勘違いしたり(男性患者が、とある看護婦さんを好きになったり)、担当の歯科医と結婚するアイドルもいましたね。
夢中で恋している様子は、傍から見ると、とても痛々しいですが。
マークの恋愛遍歴でわかるのは、ウェンディの頃は向精神薬によって破綻した(告白できなかった?)らしいこと。だから、薬物が象徴する色である緑色のデジャ・ソリスによって消されました。
模型店のロバータはマークに好意を寄せてくれますが、当のマークは劇中の終盤になるまでそれを認識できません。
マークは引っ越してきた隣人ニコルに好意を抱き、マーウェンにもニコルが登場します。ホーギー大尉もニコルを愛し、相思相愛になります。ところが、現実のマークの告白はニコルから受け入れてもらえませんでした。いつもなら、デジャ・ソリスがマーウェンのニコルを消して終わりなんでしょうが、今回は違いましたね。
マークは、ホーギー大尉とニコルの関係をリアルの自分とは切り離して考えることができるようになり、意中の人から愛されない自分を受け入れました。この成長が見所でした。
ただし、この変遷は先述したように、ニュートラルからかけ離れており、素直に受け入れにくい(Rideしにくい)要素でもあります。マークは純粋すぎますから。園児が保母さんに向かって「結婚して」というような感じに似ています。
大の大人、特にアメリカ人のように恋愛という行為がとても進化している国では、あまり一般的では無かったのだろうと思います(興行収入が振るわなかった理由では?)。日本の恋愛はまだ、純愛やら静かな部分を保っていますから、受け入れる下地なら多分に残されていたんだろうな、と。
この単純に描かれすぎていない部分(行間)を、控えめを美徳とする日本人は読めるけれども、アメリカ人はモヤモヤして納得できなかったんじゃないですかね。
未来に送られた(消えた)人物にタイムマシンで会いに行こうと仕向けるとか。こうした状況で出てくるタイムマシンは、本来、失敗した過去を変える道具立てだと思うんですが、現実から去って夢(死?)の世界に浸ったままになるという(重症化の)暗喩みたいでしたね。
マークを取り巻く現実世界の女性(影が薄いですが男性も)が、マークにやけに親しげだと感じませんでしたか? マークがよく理解されていることにもうらやましさを覚えました。これはきっと、マークの純粋さに触れて、心のガードが降りた状態なんだろうな、と実感しました。例えば、8歳くらいの子供の相手をすると、我知らず童心に返るというか、純真無垢を取り戻したような気になることがあります。マークも周囲の人々にそういう影響を与えているのでしょうね。
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