NHKで放送された
「欲望の時代の哲学 ガブリエルNYドキュメント 第一夜『欲望の奴隷からの脱出』」という番組を見ているのですが、これが意外にも覚醒コンテンツであって大変興味深い。
番組をきっかけに同氏の
「世界史の針が巻き戻るとき」を読んでもいますが、新実存主義はともかく、物事を理想的にポジティブに変革させるであろう考え方――しかも賞味期限切れと思われていた民主主義的な自由意志でもって――としては大変面白いものです。
内田樹氏の
「サル化する世界」も読んでいますが、国籍も年齢もアプローチも違う二者が似たようなことを題材として導いている答えのシンクロニシティーも大変面白いものです。良識というものを問うていくと、人はこうあるべきという思考に至るのでしょうね。
さて、番組では、ツールとしての哲学を使って、複雑な現代社会を理解しようという主旨で、マルクス・ガブリエルさんが(大部は吹き替えで)語ります。
新実存主義? 総体として存在しないって何だろう? 聞くからに一筋縄ではいかない、難しそうな、ややもすると退屈で眠たくなりそうな哲学かと思いきや――
耳を傾けていくうちに、非常に23世紀的な、つまりスタートレックくらい未来の理想社会でなら、確固として存在していそうな考え方に思わず共鳴したくなります。確かにそうありたいものですよね、と。
HBOのドラマ「ウエストワールド」は、裏を返せば、哲学的なコンテンツで野心的/覚醒的でしたが、
その第3シーズンはまさにマルクス・ガブリエルが語るSNSの功罪をドラマにしたようなものでした。レハブアムが70年代のマザーコンピュータと異なる側面を有していることを理解する場合にも好都合です。
ウエストワールド的なテーマでは、ホスト(人造人間)出身のドロレスが闘ってきたように、自由意志を剥奪させられてはならないという表層で止まってしまいそうですが、奥はもっと深い。
昨今のSNSのどこがいけないかを考えてみるならば、他者と意見が合わないときの反応が重要であることがわかります。自由が標榜されるSNSであっても、相手に対抗する「自己イメージ」を生み出させてはならない、ということになります。それは協調や尊重から外れてしまい、ひいては自由と平等を危うくさせるからです。
SNSには、いわば「ダークサイドの自由意志」を操る力があって、不調和を招く「呪いの言葉」を人々から吐き出させる手段になってしまう危険があります。それは、レハブアムが計算ではじき出した「鏡像の自分」を強いられているのと、もはや同じレベルなのです。
では、ウエストワールドの“感想”の時と同じように、番組をざっと振り返って、まとめてみます。
※以下ネタバレ
「世界史とは、自由という意識の進歩に他ならない」 ヘーゲル社会主義の崩壊、冷戦の終結(ベルリンの壁の崩壊)、などなど。グローバル資本主義が起き、私たちは解放され自由な民主主義が実現する。自由と平等が世界をひとつにする……はずだった。今や正反対のことが起きている。
社会主義という壁の消失が皮肉にも資本主義を暴走させたのか? 市場の網目が地表を覆い、電子のネットワークが世界を繋げている。自由の論理は憎しみの連鎖も招いた。
地球環境の破壊や、ロボットの台頭、ポピュリズム、功利主義の政権――民主主義への反動的な攻撃である。なぜ、こんなことが起きるのか?
自由意志は絶えず、自らを攻撃する から。
人は他人から抱かれるイメージに満足できない。「社会の複雑さ」は腹立たしく、他者と一緒に居ることは、好きと嫌いの両面なのである。
他者の自由意志は、自分が自分である為に必要だが、自らのイメージを損なう畏れもある。我々は鏡のように互いを映し合い、常に不完全なのだ。
これらは我々の時代の根源的な問題で、真の理解を必要とする。
最善の方法は、哲学を使うこと。哲学は時代に巻き込まれることなく、理解を助ける最良の学問であり、ツールだ。
我々は時代の犠牲者になるべきでなく、「社会の複雑さ」を特定の角度から見て、自由の概念を広めていくべきだ。
自由とは何か?自由と民主主義との関係。民主主義が世界的に脅威に晒されている理由。自由と自由意志の考えをはじめに生み出した人について知る。
自由と民主主義を価値の体系として考えた第一人者、イマヌエル・カント。
自由とは物事が我々に任されている状態。誕生や老化、死、それに宇宙の在り方のひとつである重力といった自然法則は変えられないが、人生の多くは我々次第である。これが自由と自由意志に関連する。
すべき事柄を思い描き、実行する能力のこと=意志
他人からのイメージに応えて、人は行動する=
社会の複雑さ(social complexity)
※俺が思うに、番組によるsocial complexityの訳は適切ではないと感じる。「社会性の複雑さ」であるとか、「社会的な錯綜」といった方が分かりやすい。詰まるところ、社会学の用語らしい。
意志は人が属す同じシステムやインフラストラクチャーの中で雑多に入り交じっている。
自由意志とは、意志の調整の最適化である自由意志が実現された状態とは、様々に異なった意志が均衡状態に至ることである。道徳と自由はイコールなのである。
「自らの人格と他者の人格にある人間性を目的として扱え。いかなる場合も手段としてはならない」それぞれの目的を尊重しあう社会=
目的の王国自由意志は理性から生まれる。
良い人、良いインフラ、良い制度=自由意志の総量を増やす
それゆえ、
SNSは必然的に自由意志や、自由、民主主義を損なう。人間の社会性は、社会ネットワークの構造次第で損なわれうるということが現実に起こった。例えば、Facebookは我々を解放することに繋がるはずが、一部の人々の思惑で乗っ取られ、トランプ政権の道を開いた。
※番組内では詳しく触れていない。参考記事:
ケンブリッジ・アナリティカ社めぐる疑惑 これまでの経緯、
フェイスブックのデータ不正共有疑惑「8700万人に影響」、
INSIDE Facebook 第5章フェイクニュースの嵐SNSに共通の概念とは、
自己イメージを表現できるプラットフォームを提供すること。
データとは、新しい石油。データとは
自分自身を見せたいと思う方法。
ここで述べるデータとは個人情報の一種。政治的理想、好み、価値観、金銭感覚、など。投稿したデータには、そもそも中立性はない。
だから、
プラットフォームは中立ではない。データを入手されても問題はない。
逆説的に、他者の自由を損ねることなく自由は利用されてしまう。SNSでは、何かが根本的に間違っている。
・判決や正義は欲しいものを手に入れることではない。
・正義の理念は互いの意志を調整し、確立させること。
・正義とは互いの意志の調整=法の支配
上記のようにヘーゲルが述べたことがSNSにはない。
SNSは法の支配に守られていない=西部開拓地のよう
SNSは民主主義を弱体化させる(なぜなら、意見の不一致に直面する)。
意見が合わないとき、相手に対抗する自己イメージを生み出してしまう。
人々の自由は守られるものの、その振る舞いを知らず知らずのうちに操られる。***** 番組内容はここまで *****
俺が思うにSNSは社会性の罠であり、その構造は、集団リンチや、学校や職場でのイジメとそっくりです。
21世紀になって、本当に人類が大人の階段を上っているのかどうか、その集団的な理性が試されるということですね。思った以上に幼稚な割合が多いから、まるでガキじゃねーか、という事態が表面化してしまっているのでしょう。
「自分さえ良ければいい」というワガママは、道徳とイコールである自由意志の前ではことさら明らかに律する必要のある態度でしょう。なのに、国家がこれをやり出すのが現代。
誰にでも批評する権利はあるのですが、対立軸に巻き込まれないように、その姿勢や場は理性的に整理されている必要があります、中立を保つように。例えば、レビューがSNS化されてしまったかのように、“色”つきで見えることはよく起きます。
空気を読む国民性の日本人ですら、SNSのダークサイドには負けてしまうようで、便乗で誰かを攻撃することで日々の憂さを晴らす人も居る恐ろしさ。まさに現代病。
ガチャでぼろ儲けを画策する業態も同様で、モラルのない資本主義は良きものをダメにすることでしょう。
いやもう、それこそ、いろんな事を考えさせてくれる入口になりますね。
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