HBO制作の「CHERNOBYL」というドラマを視ている。チェルノブイリ原発事故を扱った映像作品だ。語り口は巧みで、その恐ろしい見かけに鷲摑みにされる――瓦礫(実は黒鉛)を触れた消防士の手が火ぶくれになり、現場に近づいただけで日焼けして皮膚は真っ赤。そこに居た者はしばらくすると嘔吐する。
重大な事態が起きていると察知できた者は登場人物のわずか数人で、ほとんどの者は何も知らず、また知らされることもない。消防士の妻の友人夫婦は赤子をあやしながら、呑気に建屋の火災を遠巻きに見物している。翌朝、生徒達は何も知らず、放射性降下物の中を登校する。
事故直後から、夜空にはチェレンコフ光の青白い明かりがサーチライトのように投射されるが、誰も異常に気が付かない。
体面を大事にする官僚は、炉心爆発を認めず、平然とロシア魂を鼓舞して隠蔽する。地域住民の避難が開始されたのは、事故が世界に知れ渡ることとなった後で、爆発から2日も経ってから。
「RBMK炉が壊れるわけがない」と現場責任者は部下の言葉を信じない。部下がその目で見てきて、炉心が無いと言っているにもかかわらず、「そんなはずはない。もう一度、見てこい」
*RBMK炉=黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉
いわば、原子炉の事故は誰の手にも余ることを知らしめる内容だ。知識の無い一介の大臣では当たり前、一国の首脳、当時のゴルバチョフ大統領ですら、中性子線の前には無力に等しい。核物理反応を制御する心構えは人類には――少なくとも劇中のロシア人には――無かったんだ、ということがわかる。
不安を煽るBGMをベールに、凝り固まった社会主義ロシアの威信が米国発ドラマでコケにされていく。ゲーム・オブ・スローンズでも描かないような、酷く柔軟性の乏しい最高幹部会議が国家ひいては地球の運命を左右する。ハリウッド映画で描かれるホワイトハウスだって、もっとマシだったろう。この場面はさすがにフィクションが過ぎるかもしれない。いくら社会主義のロシアだからといって、あれほど劣悪な決定機関なんてあるものだろうか。
かくあるべきを押しつける老害、否定する者を許さないワンマン社長、人命軽視のブラック企業……喩えると、こんな風。まるで、ガミラス星のデスラー総統とその取り巻きのようだった。
ドラマにおける救いは科学者だ。つき動かされている使命感には平伏する。それでも、彼らは知識から予見できているから、「(ここにいる者は)5年以内に死にます」。そして、露大統領に「一週間後には死ぬであろう3名を任命する許可を」
隠されたままのことが不快な情報となって、視聴者にまで吐き気を催させる。ことさら、日本では現在進行形で似たようなことが起きているから、不安を通り過ぎた先が暗闇では済まない。とにかく、取り返しが付かない、ということだ。以前の、何事も起きていなかった頃に戻すことは到底不可能だ。放射能除去装置でも取りに行けるのでない限り、起きてしまった史実を墓場まで持っていくことしかできない。そして、ツケはいずれ子供たちが払うことになる。
「20世紀末には、核分裂を使った火遊びをしているはずです」は、映画『スタートレックⅣ 故郷への長い道』でのMr.スポックの名セリフだが、この火遊びは実際、高く付いた。続くセリフで、さらに核融合炉への発達と転換があることが仄めかされている。一般に、核融合炉は核分裂炉に比べて安全でクリーンとされている。折しも、2020年に核融合の為の実験炉が稼働する見込みだ……ひょっとすると、それも止めておいた方がいいのかもしれない。文明の発達が必ずしも安定をもたらさないことは数々のSFで描かれている。スローライフ的トーンダウンは、ある種の流行で終わらせるべきものではなくて、むしろ歓迎するべき、必要なことだったりするのかもしれない。
とにかく、いくつか注意しながら視たい。
・ドラマのフィクショナルな部分はロシア政府の酷さを露呈する描き方だ。当時の世界的な記録からは、隠蔽を図ったかのような経緯として認識されている。それは事実だろう。しかし、内情は内部の者しか分かるまい。
・ある女性の科学者はフィクショナルな登場人物であり、実在しない。映画に登場するような、ステレオタイプの正しい人間として描かれていて、視聴者の心の拠り所になるも、極めて英雄的だ。制作側は、事態の沈静化に向けて努力した科学者たちの総体を、役割として当てはめるべく彼女を登場させたという。分かりやすさをドラマ的に優先したわけなのでヒストリカルではない。
・描こうとする雰囲気というものが確固たる脚色としてでてしまうので、全てを鵜呑みにするのは好ましくない。映像表現の避けて通れないところで、某かの色が付いてしまう。政治的な意図の強いものだとは思わない――製作者の真意を慮りたい――が、公平中立な立脚点については見る側が意識する必要はあるように思う。
- 関連記事
-
スポンサーサイト