1982年当時は若すぎたが、39年後の今なら分かる。徹夜明けなので、後から読むと恥ずかしくなるかもしれない(笑)
●ロイ・バッティがデッカードを助けた理由必ずしもひとつであるいわれは無いので、もし、ロイ役を演じるとしたら、こんな風に情動に基づいて演技していくだろう(俺は役者志望ではないが)。
・デッカードは既に戦闘力を失った(あえて殺す必要は無い)。
・自分(ロイ)と同じ匂いを感じた――もっと直接的になら、同類だと気がついた。
※不法レプリカントを始末するのはやはりレプリカントに決まっている。
「レプリカントのくせにやけに人間くさい、もっと怪力を出せるだろうに」
「かたくなにレプリであることを表さない、こいつはそんなにも人間のフリを……?」
「自分が人間だと本当に思い込んでいるのか!」
――裏設定を掘っていくならこういったところだが、この裏設定を無視しても同様のアプローチが可能(以下)。
・人間の身近な見本としてのデッカード……彼はどう末期を迎えるだろうか? 死に際して何を遺すのか?
・(ロイ自身の死期が迫る)死を直前にして看取ってくれる者を欲する。「涙のように、雨のように」消えゆく儚さから。
・誰かに自分という存在を正しく記憶して欲しくなった。
・それらをひっくるめて、人間らしさが自分の中にもあることを知った。
・どんなに美しいものを見てきたか(自分の人生を)、とうとうと語りたくなる。
■実はこのくだりはとても皮肉
原作者であるP.K.ディックはリドリー・スコット監督に「彼らはスーパー人間じゃない」と解釈の違いを突っ込んだわけだが、スーパー人間にしたからこそ、“より劣る人間の意味に気がつくロイ”という、もともとディックが表したかったテーマを見事に成就することになった。もし、原作通りなら、“人間そっくりなのに、情感や共感を全く理解しない冷血漢”という描き方でしか、彼らを体現できないことになってしまう。
人間らしさは人間しか持ち得ない美徳であること
――どんなに人間と瓜二つに作っても、機械は決して他人に共感を抱かない、これが原作だったわけだが、映画では人間らしさは何者にでも悟ることができる、という語り口になった。質の意味では、ディックはもっと根深い溝を表現しているわけで、映画だと、ピノキオやガラテア(ピュグマリオーンの妻)を彷彿とさせるおとぎ話じみた寓話になってしまった感がある。
ディックの真贋はとても厳しいのだ。
●デッカードがレイチェルに荒々しく突っ込んだ(いたした)理由いくつかの気持ちから発するも、相反する理由に説得力を持たせたり、自己肯定する内に、デッカードの本心に火が付く。
・憂さ晴らし――その日は酷いこと続きだったから。
・そもそもの原因はレイチェルのせいでもある。
・結局のところ、ヤリたかったから。
・処女で未熟だから。怒られない。
――成熟して経験のある自立した人間の女性なら「(憂さ、あるいはエゴを)私にぶつけないで!」と強く言い返してきたはず(きちんと扱えと、手荒なまねを許さない)
・レプリカントを始末した後味の悪さを慰めて欲しくなった。
・(レイチェルはレプリだ)怯えている彼女を慰めるため――二人で慰め合うことができる。
・(レイチェルはレプリだ)彼女を殺せない動機付け。ヤリたいのは衝動だけか?――自問自答。
→「レイチェルのことを、欲望通りに素直に求めていたのか!」
ゆえに動物的な本能で激しくしてしまった。
(メイト=番いとして作られたという続編の巧みな理由付け)
・レイチェルが(手荒にされても)喜んでいることが分かる。
・互いに心の内で惹かれ合っていた。
・荒々しさは当人達には意外でも何でも無い――見ている側は急な展開で驚くが。
こんな感じでしょうかね。
スポンサーサイト