※ネタバレあり
いくつかある内のエンディングの二つを体験。一つ目は(ストリートキッズのライフパスで)ジョニーにハンドルを渡して、自分が生き残ることに。ローグおばさんは残念だったものの、終わり方としては希望らしき余韻もあって、割と「こんなもんかな」。
二つ目は、コーポ出身というロールプレイから、アラサカとハナコに賭けてみた。ジョニーからは「魂を売るつもりか」と言われる。
パナムにも頼らず、ローグにも頼らなかった。おかげで(黄色い上衣の通りに)“SURVIVE”したローグからの映像メールをエンディングロールで見ることができる。
RPG、アクション系などストーリーモノのエンディングはそれなりに体験してきたつもりだが、Cyberpunk 2077のそれは、最も重い。Fallout 3が子供だましに見える。
例えば、Mass Effect三部作の締めくくりもかなりエポックなもの(映画マトリックス三部作を比較対象に考慮)として記憶に残っている。今回のCyberpunk 2077には、閉塞感や同時代性があり、非常に今日的であると感じた。
ジョニーに任せてアラサカビル突入の方は80年代的な、The World is Yoursで済む。太く短く生きろ、というヤツだ。反面教師的な(83年の)スカーフェイス(演アル・パチーノ)のごとく破滅的でも、それもまた人生。時代が下って、87年のリーサル・ウェポンのリッグス(演メル・ギブソン)のように、マータフ部長刑事のような人物にさえ出会えれば、家族的で温かみのある人生を取り戻すこともできるはずである。
リドリー・スコット監督の映画ブレードランナー(82年)にでてきたロイ・バッティとも相通じる。ロイはデッカードという――蛇足でアンドロイドかもしれない疑惑が付いた――見本を前に、人間性の尊さ――もしくは、
人間なる形のモノが内包できる可能性――に気がつかされて、(タイレル博士に対しての告白にある通り「悪いことをしてきた」自分でも)いろんな美しいものを見てきたと述懐して4年の寿命を終える。
本ゲームでは、主人公Vの最初の友人となるジャッキーと共に「
ナイトシティの伝説になる」ことをプレイヤーは目指すよう諭されていた。
シュワルツェネッガー主演の映画Conan the Barbarian(82年、邦題コナン・ザ・グレート)の中で女盗賊Valeriaが“
Do you wana live forever?”とまくし立てていたことを思い出した。「永遠に生きたくないの?」つまり、転じて言うと「伝説になりたくないの?」というわけだ。
刹那的である。ディストピアや、享楽と死が紙一重の世界ではとても説得力がある。
アラサカのサブロウが息子の肉体を手に入れて、主人公Vとジョニーの伝でレリックによる精神上書きで蘇るくだりは、HBOのドラマ「ウエストワールド」とも重なる。もっとも、ウエストワールドでは人間の精神は入れ替えに(実在に反する観念から)拒否反応を起こすことになっているが。Cyberpunk 2077の世界では自己免疫による拒絶反応と同じに遺伝子的な適合者であれば、上書きが問題なく行えるようだ。
この「不死の獲得」という特異点的テーマは、非常に哲学的でもあり、切った張った(アクション映画やゲーム)という矮小化された部分で見ることになっても、依然として奥が深い。
コーポ――時の権力者と置き換えてもいい――に反逆するRocker Boyのジョニー・シルバーハンドは、信念に生きるためなら死をも厭わない。彼を知る者は(主人公Vたるプレイヤーも含めて)、テロリストの嫌なヤツとして記憶するわけだが、大衆には一本筋の通った生き様として伝説になっている。
図らずもジョニーと共に復活したVは、ジョニーに倣って、その精神を継ぐこともできる――なんなら、ジョニーに体の主導権を明け渡してしまったっていい。しかし、敢えてそうしないことで見えてくることもある。それが、このエンディングなのである。
デジタル化されるも適合する肉体がない状態を「
魂の監獄」だと劇中では述べている。ジョニーに言わせると、信念のない生き様はまさに魂の監獄と同じである。
Where Is My Mind?が最終ジョブ名だが、これは映画ファイトクラブ(99年)のエンディングで流れたピクシーズの曲名と同じ。ファイトクラブのように、まさに覚醒コンテンツが入ってるのだ。
流されるまま生き残ることも時に大事。しかし、信念を曲げずに短い一生を送るのも悪くない、そういうわけだ。実にパンクしている。文学的な、もしくはTVドラマや映画のスケールに比しても遜色ない結びであろう。
余談ながら、生きることを選んだVがシャトルから地球を眺めるカットは映画Saturn 3(80年、邦題スペース・サタン)で地球を初めて訪れるアレックス(演ファラ・フォーセット)のラストシーンを彷彿とさせた。