コロナ禍の閉塞感で最近の映画を鑑賞しても、なぜだか心に響かない。一昔前の映画の方が、違う視点に気が付かせてくれる……気がする。
昔見たけれど忘れていた映画と、見ないでスルーしてしまった映画を今更視聴。以前と違う何か、あるいは今っぽい何かを自分の中に感じるかどうか。
フライト 「リコシェ」で精悍だった、あのデンゼル・ワシントンも、中年のぶよぶよが滲み出てきた、そういう辛さ。ハゲじゃなかった人が、遺伝子の通りに(つまり父親そっくりに)ハゲていくのを見るような。
初めて見たときは、序盤の、旅客機の神業的な着陸劇に目を釘付けにされるも、先へ進むと、これは一体何の映画なんだ?という疑問が渦巻く。
視聴者は、主人公による自力の更正を願いながら半ば見守るが、当然、そうはいかない。アル中はアル中だ。
画面横から出てきた手が、アルコールの小瓶をスパッと掴んでいくショットに「止めろ!」と誰もが言ったことだろう。
ここでは偶然、主人公は男性でアル中であるが、駄目な人間の典型としてはアレで正しい。だから、多かれ少なかれ、誰でも客観視すると思い当たる節があるに違いない。
クライマックスは、もともと善良な犯人が「捕まえてくれて良かった」と吐露するような刑事ドラマと一緒。
「あぁ神よ、私に力を」とマイクに向かって言ってしまうほどの葛藤が、とても正直に伝わる――主人公はさほど信心深そうではなかったから。
吹き替えの小山力也さんの声だと、ジャック・バウアーならともかく、この場面は、冷めたヒーローボイスではあり得なくて不釣り合いに聞こえてしまう。
「もし、アル中が英雄になったら、どうするか?」という見せ方は映画的で面白い。でも、「所詮、アル中の話だ」となると見せ方が歪であったと感じてしまう。そこにちょっとモヤモヤが残る。
トリーナを演じた女優さんのプロポーションが抜群。冒頭のベッドシーンで彼女のシルエットがフレームイン/アウトを繰り返すと、もっと見たいと思ってしまう。男は元来そういう生き物で申し訳ないんだけど、俺の場合は職業病もある――二次嫁にあのシルエットを移植できないか、みたいに考えるから。
キャスト・アウェイ トム・ハンクスが若い。(劇中で)95年(+5年)の話なのか。ベルリンの壁は崩れたが、世界がグローバル化の波とテロの波で変容し始めたのをまだ感じなくて良かった頃だ。
実在のFedExが登場するのが面白い。10年違うけれども、フライトの航空会社はさすがに架空だったから。
時間から放り出された人の話だ。無人島に漂着するコトなんて、自分の人生には無いよなァ、みたいな無関心には繋がらない。だって、これは辛い時期を耐え忍ぶ話だよな、と分かってくるから。
「オデッセイ(原題 The Martian)」での、マット・デイモンによる火星島流しジャガイモ生活も感銘を受けたもんだが、やはり、本物の無人島暮らしは普通に想像力で補えるだけに、とても過酷なことが伝わる。火起こしでは、鉄板と石による火花(江戸時代風)を試してみては? と助言したくなるほど。
チャックがココヤシの実に叩きつけて発見した裂ける石は、サルになるゲーム「Ancestors: The Humankind Odyssey」でも出てくる。あれを見つける偶然の方がスゴそうだ。
「10メートルの縄」が事後だけで出てくるところがポイント。高波を超える場面は以前と以後の両面で描かれるのに。自殺を考えた場面そのものは出てこない――あくまで希望のための映画だからね。
「ウィッチャーIII:ワイルドハント」でもゲラルトが、「ふむ、絶対に裏切らない親友だな」と髑髏のことを言っていたのを思い出す。やはり人は話し相手がいないとヤバイのだ。「ザ・シムズ」にも、ソーシャル・バニーが出てくるじゃないか。残され島のおじいもコナンに言っていた。「人は一人では生きていけない」
ハンクス演じるチャックは、バレーボールに付いた血糊の手形をウィルソンと呼んで、話しかける。ヘレン・ハント演じるケリーの写真に見守られながら。脳内ケリーを相手に、ではないところが、オタクと違うところだろう。ケリーは唯一の現実だ、食べずに冷蔵庫で最後まで残しておくことに意味がある高級ケーキのように。
そして、忘れてはならない、天使の翼と三重の輪っか。象徴的なガーディアン・エンジェルのひとつだ。その徴(しるし)に何を感じるかは、宗教観も含めて、人の自由。リュック・ベッソンのジャンヌ・ダルクだったら、神の御徴だと臆面もなく言うだろう。そうでなくても、前向きな人は希望を見いだす。
鯨。地球に生きている知的生命体はホモサピエンスばかりではない。鯨が海の後見人として登場してくることには、多分に西洋的な自然科学主義と偏った生命礼賛を感じさせる――グリーンピース的な。
とはいえ、そこは天使の翼と同様に、ロマンであろう。アメリカでは、食肉用の牛がその立場にならないことだけは確かだが。
代わりにイルカでもよかったのに、とは思える。確かに、鯨の潮吹きなら、見えなくても存在を感じさせる演出に一役買うが。ぶっちゃけ、神が遍在する、という信念(概念)を大体の保守系アメリカ人は持っていると、この映画は肯定している。
流れ着いたベイカーズフィールドの屋外仮設トイレの外壁の裏に、天使の翼と三重の輪っかを描いてしまうほどだ。俺は、後で知らず知らず、ここをStrawberry Fieldsと間違って思い返してしまったのだが。そうであったなら、もっと面白かったかも。
なんたって、ジョン・レノンやビートルズと繋がるわけだ。Let me take you down(君を連れて行きたい、ケリー)だし、Nothing is real And nothing to get hung about(これは偽りだし、悩む必要は全くない)になる。もっとも、Strawberry Fieldsの歌詞はレノンの抱く理想が現実と相容れない(みんなから夢見がちだと言われてしまう)様を現状肯定している否定の歌だと思うけど。
嵐で帆(天使の翼)が吹っ飛び、「なぜだぁ!」。潮吹きで気が付いたのに、「すまない、ウィルソン。僕には(君を救助するのは)無理だ」。絶望してオールを手放してしまうチャック。でも、水面下にはザトウクジラが付いている。
ヘレン・ハントは美しい――おでこの皺が年輪を感じさせたとしても。ショートカットのヘレンは、ジョディ・フォスターを彷彿とさせ、声までもジョディの喋り方に似ている。日本人が好む白人女性の顔だちのひとつだろう。
私生活でのジョディは人工受精で子供をもうけてシングルマザーを貫き、やがて同性婚したたいへん聡明な女性だ。だから、そのことを知った男性はジョディを恋愛対象と捉えることに気後れを感じてしまう。
しかし、「恋愛小説家」に出てきたヘレンのようなウェイトレスなら、オタクは間違いなく恋に落ちる。画が三次でも二次的な夢が見られるのだ。
その甘いヘレンを、チャックにRideして見ていたらとても哀しい。
チャックからのセンスのないクリスマスプレゼントに幻滅したことを見せず、精一杯嬉しい素振りをしていた5年前のケリー(ヘレン)――とてもいい彼女だった。異性の人となりを手っ取り早く知るには、ガッカリさせる状況を故意に作って試すというのを聞いたことがある。
車は「想い出の装置」としてケリーが大切に保管していてくれた。クリスマスの晩、ケリーに渡した車の鍵に付いていた十徳ナイフがあれば、無人島での暮らしぶりももっとラクだったろう。
ケリーは、歯医者がものにしてしまっていた。あの虫歯放置の原因になったであろう歯医者だ。娘も居ては、もうどうしようもない。
人間のできているチャックは、ケリーを旦那の元に帰す。明日から蘇るんだと旧友たちに励まされていても、内心は複雑だ。唯一残してあった“天使の荷物”(翼と三重の輪っか)を5年ぶりに届けた(不在だった)帰り、親切な女性が道案内してくれる。映画冒頭で出てきたあの十字路で。女性が乗る車の後ろ姿に同じ翼を見て、チャックの心は軽くなり、映画は終わる。
荷物に対するプロ意識(決して開封しない)と、5年後の不在でなぜか持ち帰りしない、チャックの生真面目さに、隠れた笑いも出る。
ロシアにいるカウボーイの男性(浮気現場)と、チャックがカウボーイと呼ばれ、最後に微笑んで、(国内?の)道を臨んだ場面には、ふっきれたと解釈してもいい。この場合は、ソウルメイトの結婚観を持つキリスト教に対して不倫問題をどうするのか、という感じではあるが。
現代風に考えれば、二人の旦那と一人の奥方で子供を育てる、新しい家族の単位に当事者全員が納得できればいいなァとは思う。一夫一婦制はあくまで旧い婚姻の形(単に文化が強制させるもの)であって、トランスジェンダーの時代にまで守るべき束縛とは思えない。
でも、翼の彼女は今独身(表札によれば離婚した)。チャックは新しい出会いの始まりに気が付いた、ということなんだろう。物語としてはそれで落ちるけど、変わり身がちょっと早すぎるかもね。
彼女のことはしばし忘れて、また生き残りに時間を費やすのも、彼なら出来ると分かっているし、逆境には馴れたもんね、と捉えれば、ストレスを感じやすい現代社会の我々には励みになる。生きてれば、いいことも、きっと起きるよ。
スポンサーサイト